翔の会の誕生は、前身の「よいしょ作業所」設立の経緯から説明する必要があります。
時は1981年の国際障害者年でした。わが日本でも、なかなか注目されない障害者に光を当てるために、さまざまな試みが行われました。障害者福祉向上を目指した講演会やイベントが行われ、マスコミでも取り上げられる機会が多かったのを覚えています。
わが町茅ヶ崎はどうでしたでしょう。
障害児者のための施設は、就学前の障害児の通園施設つつじ学園と、市立の作業所が1カ所(定員10名)ありました。
当時のつつじ学園では、成人部として10名の通所枠があり、合計20名だけでした。しかも、自力通所可能、身辺自立が条件で、重度の障害者が通える場所は、ありませんでした。
結果として、家庭での介護が難しい人たちは、遠くの入所施設や病院に送られ、家庭で介護できる人たち(ないしは、施設入所が難しい人たち)は、家の中に閉じこもったままでいました。養護学校を卒業しても、通える場所がなく、長い間自宅から出られない生活を余儀なくされていました。
そうした背景から、自宅に閉じこもっている障害者が出かけられる場を作ろうという活動がうまれました。
1982年頃から、ボランティアの協力を得て「集いの場」を持ちました。最初は、障害者の自宅や福祉会館などを利用して、単発で開きました。
長い間、自宅から出ていなかった人たちなので、簡単には集まれません。
ボランティアや親が送迎をし、一人一人説得をしながら、徐々に集まる人数が増えていきました。そして「集いの場」は毎月1回の定例となりました。
活動を続けるうちに、彼らがいきいきと輝きはじめたからです!
通ってくる障害者(以下メンバーと呼ぶ)にとっては、外出(=社会参加)なしの生活が考えられない状態になっていったのです。
しかし、そうなると場所の確保が問題でした。福祉会館を含め、公的施設は定期的な確保ができません。その都度予約が必要で、また、活動の場を点々としていると備品等を置いておく場所もありません。
当時、すでに「障害者地域作業所補助金」の制度があり、10名の障害者が通う場に補助金を出してもらえたのです。私たちは茅ヶ崎市に補助金を要望し、何とか通所場所の確保をお願いしましたが、「通所実績がない」等の理由で認められませんでした。
1984年、公的支援を得るためには、実績作りが必要と実感したメンバーの親たちとボランティアは、協力して茅ヶ崎市本村に民家を借りました。
家賃・光熱費等は利用するメンバーの親たちで負担し、後はバザーや寄付で補い、送迎や介護は親とボランティアで負担しました。
この年は、職員もいないため、週三回の通所活動でした。
無理をせず、疲れたら『よいしょ!』と腰を下ろして休める所
誰にも心地よい『良いところ=よいしょ』と合わせ
【よいしょ作業所】と命名されました。
常時通所するメンバーは5、6名、親数人、ボランティア数人の活動でした。
この年に忘れてはならないのは、どこからも補助金が得られない状態で、それぞれ自家用車で送迎や外出を行っていたのですが、茅ヶ崎青年会議OBの有志の方々が呼び掛けて下さって、中古のワゴンを寄付していただいた事です。今では考えられませんが、クーラーもなく、コラムのギヤシフトでパワーステアリングもありません。乗り心地も、お世辞にも快適とは言えず、ガソリンメーターが壊れていたため、走行距離からガソリンの残量を推測し、給油を行っていました。そのため、送迎中に何回かガス欠で立ち往生したこともありました。しかし、作業所の備品の多くを「粗大ゴミ」から拾って来ていた状況なので、とても嬉しかったのを覚えています。
1985年、ついに茅ヶ崎市より補助金がもらえる事になり、正式に障害者地域作業所「よいしょ作業所」(所長は土田八千代さん、以下土田さん)としてスタートしました。茅ヶ崎市内で出来た最初の障害者のための民間施設です。職員1名(和田)、メンバー10名でのスタートでした。開所して、すぐに職員をもう一名採用し、2名体制としましたが、車いす利用者も多く、介護や外出のため、多くの親たちやボランティアの協力でやっと日々が過ごせていました。
作業内容としては、和紙工芸や木工、新聞紙をリサイクルした紙粘土細工等の自主製品が中心でした。また、外出機会の少ないメンバーのために、買い物やリクレーション活動も積極的に行いました。
4月に開所したとは言え、茅ヶ崎で初の作業所です。補助金交付が遅れ、職員のお給料は、4〜7月分と賞与をまとめて7月にやっと支払う事が出来たのです。財政状況は厳しく、賛助会員等の支援を多く受けましたし、地域のバザー等には積極的に出かけて行きました。休日は、ほとんどバザーに参加していたような状態でした。初年度の年度末には、職員の給料が払えなくなり、急きょ浜見平団地の集会室をお借りしてバザーをやり、なんとか年度を越す事ができました。
この年には、日本テレビの24時間テレビのリフト付きワゴンの寄付ももらう事が出来ました。(後に取材を受け、「活躍している寄付車両」としてテレビ放映もされました。)
翌年1986年には、特に宣伝をした訳ではありませんが、「口コミ」によって、通所希望者が増え、作業所は足の踏み場もないほどになりました。
また、利用者の年齢も幅広くなり、若い人たちと、中高年の人たちとの過ごし方にも配慮が必要となってきました。
第2作業所の開設に向けての準備です。場所探しが始まりました。障害者に対する理解も不十分な状態で、簡単には見つかりませんでした。しかし、当時、清心共の会(※注1)やヤッホー子供会(※注2)が使っていた清心会館(※注3)(茅ヶ崎市共恵)の一部を借用する事が出来ました。そして、第2作業所が活動し始めました。
※注1 清心共の会・・・当時、訪問介護はなく、在宅での様々な介護や家事
援助は、無償のボランティアが担っていました。しかし、個人の全く
の好意だけでは、支援の継続性や恒常性に限界があり、相互扶助の精
神に則り、有償で支援する団体が必要であるとの理念から産まれた団
体。
後に、NPO法人となり、介護保険制度の訪問介護事業も開始する。
※注2 ヤッホー子供会・・・障害児の遊びの場の提供と、地域との交流を目
的とした子供会活動。地域で活動していた学生や社会人が立ち上げ、
市内の障害児を集めて月一回の子供会活動を中心に、夏はキャンプ等
を行っている。若いボランティア育成の場にもなっていて、参加者か
らは、福祉や医療分野に就職した者も多い。
※注3 清心会館・・・故高橋誠一先生(南湖院副院長として招聘され、のち
に茅ヶ崎市共恵に小児科医院を開業。地域医療に貢献されるとともに
、クリスチャンとして恵泉教会、恵泉幼稚園設立に尽力。)のもとに
集まった高校生が、戦後間もない貧困時代に、地域の子ども達を対象
に行ったセツルメントの活動拠点として建設。この若者の団体を「清
心会」という。時代の推移とともに、倉庫として使用されるのみであ
った。
現理事の荒井厳氏、角田祝男氏は、清心会のメンバーである。
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