和田清(わだきよし)
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1.ロサンゼルスでの生活レポート 
2.LAの学童保育 
3.カンボジア紀行(その1) 

1.ロサンゼルスでの生活レポート
  9.11事件が起こったその翌年(2002年)に、私たち家族は、ロサンゼルスを訪れました。それは長年の夢であった、アメリカ生活を実現するための下見でした。

妻がアメリカ国籍、彼女が日本に帰化する道を選ばず、アメリカ国籍のままの「国際結婚」を選択したのは、子ども達の将来を含め、日本だけではなく、海外での生活も可能であるという選択肢を残しかったからです。

「贅沢」かもしれません。
しかし、現代日本の閉塞感に対し、多いに不満や不安を感じていたからであり、また、外から日本を見る事により、将来が開けるのではないかと期待したからでもあります。

ニューヨークヤンキースの松井選手と同じ年、家族全員で成田を発ったのは、2003年6月のことでした。成田に着いても、国際テロの脅威を感じたら、引き返そうという決意で、私たちはロサンゼルスに渡りました。

それから2年あまり、家族で悪戦苦闘したアメリカでの生活と、生活者として見た「アメリカの実態」をレポートしたいと思います。
 
 
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2.LAの学童保育
  ◯ 全ての小学校に「学童保育」が!

 アメリカは州によって、時には市によってかなりの違いがあります。私たちが住んでいたのは、カリフォルニア州ロサンゼルス郡バーバンク市というところでした。
 ロサンゼルスの中心からは20kmほど北の盆地です。でも、比較的中心地に近く、ユニバーサルスタジオが車で10分ほど。近くには、ディズニーの本社がありました。
 比較的、治安が良く、教育レベルのそこそこ高い地域だったようです。そこの幼稚園(といっても小学校の中にある)に4男が、小学校3年生のクラスに3男が入学しました。
 アメリカでは、12才以下の子どもを一人で家に置いておくと、「幼児虐待」という事で罰せられます。小学校の送り迎えもそうです。5、6年生ぐらいだと、一人で登下校する事も黙認されますが、低学年の子どもは、一人で登下校させる事はできません。
 そういった理由もあり、「デイケア」という名の、「学童保育+幼稚園」が、全ての小学校に併設されています。専用の校庭を持ち、バーバンク市全体のデイケアを統括している民間の団体があり、運営されています。

◯ 朝7時から夜6時まで

 親の就労を保障するという観点から、預かる時間は、朝7時から夜6時までです。つまり、朝早い仕事の親御さんは、ディケアに送り、そのまま仕事に行きます。8時30分になると、子ども達は、そのデイケアから学校に登校します。学校が終わると、またデイケアに戻って来て、親の帰りを待ちます。
 ここは、設備も充実してますし、専門の職員がいて、定員も決まっており、常に待機児がいるようです。
 また、低所得者には減免の制度もあり、我が家も減免を受けていました。利用にあたっては、特に就労要件はありません。言い方を変えると、就労していない親は珍しい(よほど裕福か、仕事がないかでしょう)からかもしれません。

◯ 更に学校内に2つの学童保育がある。

 当然全ての子ども達を受け入れる事は出来ませんし、設備や職員が充実している分、費用もかさみます。そのため、これは市内でも全ての学校が実施しているわけではありませんが、空き教室を使った学童保育と、校庭を使った学童保育がありました。
 空き教室を使った学童は、若い職員が指導し、校舎内の図書室やコンピューター室も使って、勉強や遊びを行います。職員の専門性や人数を考えると、前述のディケアよりは、少し質の面で落ちます。その代わり負担額も少なくてすみます。
 これは「BOYS&GIRLS」という名称で、やはり、市内に本部があり、各学校にスタッフを派遣して行っていました。
 もうひとつは、茅ヶ崎の「プラザ事業」のように、校庭を利用した預かり事業です。雨の時や、光化学スモック(これが意外と多かった)の時は、空き教室を使いますが、通常は、校庭の片隅で勉強や遊びをしながら過ごします。職員の数は、さらに少なくなります。

◯ 学校外にも民間の学童保育が、、、、

 更に、民間の学童保育がいくつかあります。典型的なのはYMCAです。詳しい内容はわかりませんが、親の仕事の時間帯や収入によっては、より長時間預かってくれたり、質の良い場所を求める人もいるのでしょう。
 下校時間には、それぞれの団体のワゴンが学校の玄関に横付けされ、子ども達をピックアップしていくのです。
 親の就労をしっかりバックアップして行く体制が整っていると言えましょう。

◯ 障害児のための学童保育

 障害児のためのディケアもあります。それは「どこにでも」とはいかないようですが、民間のNPO法人が運営しています。
 また、養護学校でも6時までの預かり事業がありました。「障害を持っていても、親はしっかり働ける」環境の豊かさを感じました。

◯ しかし、土日祝日、長期休みは、なし。

 あくまで、ディケアは「学校がある時」だけ行われています。土日に働かなければならない人は、また別の手段をとらなければなりません。比較的安く雇えるベビーシッターを利用する場合が多いようです。
 問題は長期休暇です。特に夏休みは大変です。ベビーシッターを雇うか、YMCA等が行っているサマースクールに参加させるのが一般的のようです。僕らの市の場合は、6月終わりから8月の終わりまで、丸々二ヶ月以上、休みでした。
 サマースクールは一週間で2万円以上かかります。それをつなぐにしても、お金はかかります。親も長期休暇をとるのが「普通」とはいえ、実際は、そんなに休みは取れていないようです。
 やはり、専業主婦(主夫)がいない、つまり働かない大人がいても生活できる収入がない家庭は大変なようです。

◯ 子どもの安全と親の就労保障

 12才以下の子どもを一人で登下校させたり、家に置いておく事は「虐待」だという法律のもと、学童保育の資源は作られてきたのだと思います。
 言い方を変えれば、それだけ、犯罪や事件に巻き込まれる事が多かったのだと思われます。
 日本は、本当に安全でしょうか?「学童保育は一部の子どもの問題」なのでしょうか?
 「きちんとした学童保育がない」事で、危険にさらされ、きちんと育つ環境が整えられていないことによる一番の犠牲者は、子ども達自身だと思います。

 
 
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3.カンボジア紀行(その1)
○2006年1月、カンボジアに行きました。

福祉の現場は、人材不足が続いています。
介護保険導入前後から、徐々に厳しくなってきました。バブルの絶頂期、人は福祉の現場に来ませんでした。バブルがはじけ、民間企業が厳しくなると、一時的には人は流れてきましたが、やはり公務員の下、一流企業の下、だったように思います。
 しかし、その後は、「ピタ」と人が集まらなくなりました。そんな人材不足の現状を打開すべく、海外に人材を求めざるを得ないのではないか、との気運が高まり、翔の会の幹部職員が個人的参加していたNPO法人が関係していたカンボジアに視察に行く事になったのでした。
 ほんの一週間の短い滞在でしたが、多くの刺激を受けました。順次、報告したいと思います。

◯何故、カンボジアだったのか?

 ご存知の通り、カンボジアは長い内戦(ポルポトによる大量虐殺が行われたり、ベトナムの侵攻など)によって、壊滅的な打撃を受けた歴史を持っています。
 それは、ほんの20年前の事なのです。もともと、熱帯雨林の気候とメコンデルタの肥沃な土地のせいで、自給自足の生活が可能であり、かたや鉱物資源が乏しいために、国際社会の侵略が最小限度で済んでしまったことも影響し、近代化が遅れた背景があるようです。
 カンボジア人は、「微笑みの民」と言われるように、歴史的にも温厚な民族として、慎ましやかに行きて来たようです。
 ポルポト政権が、弾圧を強めた70年代後半、多くの難民が産まれ、タイ国境へ逃げて行きました。その一部の難民を日本も受け入れ、大和市にあった難民センターに多くのカンボジア人が移住していた事を覚えている方もいるかもしれません。

 その、避難民の一人の方が、横浜の工場で働きながら母国を思い、「教育がきちんと行われていたら、あんな悲惨な虐殺は行われなかっただろう。ぜひ、母国に学校を作りたい。」と決意したそうです。
 そんな彼の叫びに応えた日本の人たちが立ち上がり、カンボジアに学校を作る運動を始めたそうです。
 その結果、日本のNPO支援により、カンボジアの片田舎に、「日本カンボジア友好学園(中学高校一貫教育校)が出来たのです。そこへは、日本からの資金的援助によって校舎が建っただけでなく、教員の給与等の支援もあり、また日本語教育を含めたボランティア教員の派遣も行われていました。
 その結果、中学高校と6年間も日本語を学んだ生徒たちは、とても優秀で、日本での労働が可能であろうと判断したのです。日本の外務省の受け入れ(ビザの発行)等の問題はありますが、「子どもたちの実態はどうなのか?本当に即戦力として日本で、福祉の現場で働けるのか?」を見きわめるために出かけてきました。

◯プノンペン到着。拷問の行われた施設。

 タイのバンコク経由で、まずプノンペンに降り立ちました。夜に到着した私たちは、まずはホテルにチェックイン。プノンペンで「一流」と言われたホテルに泊まりました。「一流」のホテルは、かろうじて、「ホテル」でした。お風呂のお湯が出て、ベッドも机も「普通」のものでした。(その後、お湯が出なかったり、机が日本の事務机だったり、窓がない地下壕みたいな部屋だったり、「一流」の意味は後ほど分かったのですが。)
 翌朝、私たちは、「カンボジアの事をまず知ってから」と言う事で、ポルポトが、市民を捕まえて拷問した場所(元は高校だったそうです。)に案内されました。

 場所は、市の中心部からさほど離れていません。そんな住宅街の一角にその施設はありました。
校舎はバラ線で覆われ、教室は、拷問室へ、あるいは畳み一畳ほどの独居房へと改造されていました。拷問室には鉄製のベッドが一つ置かれ、足を固定する金具と両腕を固定する鎖がありました。
 そこで、叩いたり、熱いコテを押し付けたり長時間の拷問が行われたそうです。排泄物は小さな鉄の箱にさせられ、主に親族や知り合いの情報を聞き出すために拷問が行われました。
 水槽に水をはり、何度も沈めて苦しめたり、重い石を抱かせたり、世界中どこでも行われた拷問が続けられました。ブランコであった鉄棒では、吊されて叩いたりの拷問が行われました。
 そして、口を割らせ、さらに親族や知り合いを拘束に向かったようです。
全ての「知識人」とレッテルを貼られた人たちとその家族、医師、教師、学者、作家、ジャーナリスト等が一族全てが捉えられ、拷問の末、殺されました。


 この拷問施設で死んだ人もたくさんいたようですが、惨殺現場(キリングフィールド)へ連れて行かれて殺されたようです。拳銃等の銃器は玉がもったいないとの事で、撲殺、赤ん坊や子どもは、石や木に叩き付けられて殺されたとの事です。
 何故か全ての人の写真が撮られていました。国際的に有名になった母と赤ん坊の写真、このお母さんは学校の先生だったそうです。
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